自己開示
初めまして、松岡晃弘です。
ゆるーく人生を楽しむ治療家として主に茨城県で活動しております。
このように自己紹介をすると、のんびりした人だなあと思われるかもしれませんが、元々はむしろ逆に、張り切り過ぎてしまうタイプです(笑)
そんな僕が「ゆるーく人生を楽しむ治療家」と自ら名乗ることにしたのは、整体を伝授して貰った師匠に「松岡君は、難しく考え過ぎだからもっと気楽に人生を楽しむように」との教えを受けたのがきっかけです。
元々僕は若い頃から「人生は一度切りだから何か世の中にでっかい功績を残したい!」このように考えて、常に自分を追い込むクセがありました。高校時代の友達曰く、僕は英単語片手に「俺はニューヨークに住んで世界的な男になる」と豪語していたそうです。うーん、今思い返せば大分痛い奴ですね。おそらく小学生あたりの時にテレビでやっていた、マネーの虎の影響でしょう。当時は、今と違い、テレビの影響が計り知れなかったですし、致し方なかったのかもしれません。しかし、その後の人生で待っていたのは、残念ながら世界的な男となって有名になるのではなく、自分の慢性的な頭痛、身体のだるさ、絶え間ない不安感、焦燥感に苦しむという終わりのない過酷な戦いでした。
「でっかい功績を残したい」という思いが、自分の自然な感情なら良かったのでしょうが、僕の場合はそうではありませんでした。何か大きな結果を出さなければ、自分という存在が認めて貰えないと思い込んでいたのです。ですから、振り返って考えてみると、僕はいつも理想の自分と現実の自分とのギャップに苦しんでいました。しかも、その掲げていた理想自体が本当の願望ではなく、不安感からくる強迫性によるものでしたから、大分チグハグな状態でした。それでは、不調にならない方がおかしいですよね。まさに僕の治療家としての考えの根底となっている「不調は自分で創っている」を体現していたということです。
そんな過去の自分に自戒の念を込めて「ゆるーく人生を楽しむ治療家」として生きていくことに決めました。とはいえ、全てのクライアント様の不調を治したいというでっかい夢はいまだに持ってますけどね。
僕の不調回復への理論は別に記載していますから、そちらを読んで頂くことにして、ここではなぜそのような考えに至ったのか、その経緯を僕の人生を通して振り返っていきたいと思います。予めお伝えしておきますが、あちらは固い文章で書いているので、こちらは若干フランクに書いていきます(*‘ω‘ *)
さて、僕は17歳から36歳まで原因不明の頭痛で悩まされ続けておりました。なんと19年です。なんなら、あと1年で成人式を迎えそうな勢いで絶不調だったのです(笑)
具体的には朝起きた直後から、就寝し意識が消えるまで、絶え間なくコメカミあたりにズキズキとした痛みが続きます。皆さん、眠りにつく前ってなんだかとても気持ちいいですよね?私の脳の状態は、同じように常に眠い感覚だったのですが、セットになっているのが気持ちよさではなく、圧倒的な不快感だったのです。日中寝るわけにはいかないですから、不快感がある眠気と頭痛に気力でずっとあがらい続けるわけです。社会人になってからの会議では、気絶しないように必死に手の甲をつねっていました。一旦僕は、何と戦っているんだって感じでしたね(笑)
そもそも、不調は自分の問題ですから、他人と合う時にしんどい顔をするわけにはいきません。とにかく我慢、我慢。そんな葛藤をしているうちに、どんどん自分だけの世界に入り込み「世の中には、本当の自分を表現できる場所なんてない」と思うようになりました。実際は、自分で勝手にそのように解釈しているだけだったんですけどね。
本当は、我慢するのが苦しくて「つらいって言いたい、でも言えない。どうせわかってくれる人なんていない。でも本当は分かって欲しい、助けて欲しい。でもそれを言ったらどう思われるか、、、」とにかく、ずっと不安だったんです。
このように言葉にしてみると「そんなことグダグダ言ってもしゃーないでしょ!シャキッとしなさい!」と過去の自分に突っ込みたくなります(笑)とはいっても、それは今だから言えることで、当時の状態では、不調を受け止めることはやはり難しかったように思います。
そんな調子で、不調が続いた19年間は、年に2、3日の調子が良い日以外は、常に頭痛との格闘にエネルギーと意志力の大半の部分を奪われ続けました。
ところで、僕の不調が始まったのは17歳の時でしたが、それは父親が病気で亡くなった直後でした。僕の父は、常に周囲に気配りを欠かさない人でした。仕事で疲れていても、ひょうきんに笑わせてくれて、職場でも家でも気配りの毎日。そんなに周りのことばかり気を使っていて、自分のことはいいの?と中学生の頃の僕は、父親の生き方が非常に退屈に思えて心配でした。散々働いて、家を買ってこれからって時に亡くなりました。ですから、そんな父が亡くなってから、5年ぐらいは「本当に父の人生はあれで良かったのか?本当に自分の生きたい人生だったのか?」と物思いにふけるようになりました。
人は、末期癌になると想像を絶する苦しみに襲われます。私の父も、亡くなる直前の苦しみは壮絶なものでした。父は、亡くなる少し前から「空から降る一粒の雨になりたい」と、ほぼ意識があるのかないのか、わからない状態で話すようになりました。それがずっと脳裏に焼き付いて離れなかったのです。
しかし、そのような思い込み(考え方)はある日を境に変わりました。その日、僕は常磐高速道路を使って、茨城から千葉に移動中でした。その日もいつものように父のことを思い出していたのですが、突然、頭の中がスッキリして「父の人生は、きっと幸せだったのだろう」という確信に変わったのです。このように言うと、怪しい宗教にハマった人みたいですが、そうではありません(笑)ただ単に「母と結婚して、僕と妹が生まれて、父にとってはそれで十分だったのではないか」そのように、ふと思ったのです。
おそらく、人生経験を重ねるうちに、何かが繋がって思考が転換したのだと思います。僕はそれ以来、父の事で悩むことはなくなりました。
僕はその体験から、如何に自分にとって不要な思い込みがマイナスに働くかを実感しました。そもそも「どんな人生なら満足だったのか」なんてことは、本人しかわからないと思うんですよね。なんなら、本人だってわからない、それは自分の胸に手を当ててみればすぐにわかることですよね(笑)
今では、僕の年齢も父が亡くなった頃の年齢に近くなり、子供の頃は見えなかった父の心情が感じられるようになりました。父は、きっと自分の性格を窮屈に感じることもなく、自分の人生を楽しんでいたのだと思います。僕は「父が幸せだったかどうか」なんてことを考え続ける必要なんてなくて、本当は、時折、父との思いでを楽しく振り返れば良かっただけなんですね。
さて、話は変わりますが、僕の高校生活自体は、気のいい仲間と巡り合い、最高に青春を謳歌しました。不調もそれが後19年も続くとは思っていなかったですし、授業は寝てれば良かったですし(笑)
友達と栃木県まで自転車で旅行に行き、山越えしようとして遭難して地元民のオッちゃんに救助されたり、部活で試合に負けた結果、アタッチメントなしで頭を刈って翌日和尚のようになってみたり。僕の人生でもっとも笑いに溢れていた3年間でした(笑)
ちなみに、頭痛に関して本気で「これは困った」と最初に自覚したのは受験勉強の時です。18歳の頃は、極度の頭痛が続き、連続して起きていられる時間は30分程度でした。30分勉強しては15分気絶するようなサイクルで勉強を続けました。もはや、勉強しているのか療養しているのか怪しいラインですね(笑)
流石にあまりのしんどさに母に病院へ連れて行ってもらい、MRI検査を受けることになりましたが、検査の結果は問題なしでした。いわゆる原因不明の不調になったわけですが、これがこのあと長年続く不調の始まりだとは夢にも思いませんでした。
その後、「世界的な男になる(笑)」べく無我夢中で勉強した僕は、無事に大学に合格しました。そして大学では一生懸命に勉学に励む、、、なんてことは全くなく、気づいたらラグビー部に入部していました。高校ではバドミントン部でしたが「全国大会出場を目指している」と話すマッチョな先輩に心を惹かれ、即入部を決めました。僕の猪突猛進ぶりは、このころから変わっていないですね(笑)一生懸命に取り組んだ結果、大学4年時には、キャプテンにも任命されました。
ちなみに、今だから白状しますが僕は大学2年までは、タックルが怖くて仕方なかったです。自分よりも身体が大きい選手がほとんどでしたし。タックルするたびに痛くて仕方ありませんでした。ポンポン抜かれてチームにも迷惑をかけていました。しかし、ある日から一気に感覚が変わりました。練習でコツを掴み、相手の動きがゆっくり見えるようになったのです。そして、大学3年からは、格上のチーム相手にもほぼ抜かれることが無くなりました。また、タックルしても全然痛くなくなりましたね。
もちろん、身体を鍛えたり毎日タックルの練習をしていたことが前提にはありますが、ここでもやはり思い込みが大きかったように思えます。自分の経験の浅さなどから、どうしても相手に引け目を感じていたと思うのですが、よく考えれば相手も同じ大学生。しっかり練習していれば、そうそう負けないということです。自身で創ったマイナスなイメージが自分の動きを悪くして、その差が出ているだけ。ちょっとした思考の働かせ方でこうも結果に大きな差が出ということ。やはり、一歩ずつでいいので、前を向いて前進することが大切だと思います。
さて、大学時代も不調はあったものの、ラグビーをしているときは、頭痛を忘れることが出来ました。またこの頃からは、頭痛クリニックに行ったり、漢方薬も飲み始めましたが、特に不調は改善しませんでした。それにしても、片親で大学まで行かせてくれた母には、いくら感謝してもしきれません。
大学卒業後も、頭痛は絶え間なく襲ってきました。常に気を張っていないと気絶してしまう。常に頭全体が不快な状態である。時折その苦しさと先の見えない不安に脳がグルグルと回ってしまい精神的にパニックになりました。奈落の底に引き込まれる感覚があり、本気で頭がおかしくなってしまうのではないかと思うことが度々ありました。しかし、見た目には健常者であり病名も何もついていない。ですから誰にも理解されることもありません。これが一番つらかったかもしれません。いや、正確には誰も理解してくれないと、勝手に決めつけて自分から殻に籠ってしまっていたと思います。誰も自分の不調はわかってくれないのだと自己解釈を行ったことで、私はどんどん自分で自分を追い込んでいきました。
もちろん、現実に私には自分を見てくれている家族や友人がいなかったわけではありません。高校時代はバドミントン、大学はラグビー部に所属し仲間と汗を流しましたし、社会人になっても自分を見てくれる先輩や同期もおりました。今になって思い返せばいつの日も一人ではありませんでした。しかしこれは不調から脱出してはじめて心から実感できたことです。
うーん、なんだか、重苦しい話になってきてしまいました(笑)
実際には、楽しい思い出も沢山あったわけなんですが、、、
ただ、僕がお伝えしたいことは、こういった状況からも脱出できるということ。なので、なんとなく治りましたではなく、こういった経緯があったことをなるべ詳しく書いてます。
改めて当時の自分を振り返ってみて思うのは、不調の恐ろしさはその症状もさることながら、それによってパニックになり自身の視野を狭めてしまうことのように思えます。
渦中にいるときは、不安や焦燥感から心が鈍麻し自分の殻に閉じこもってしまっているので、現実にコミットできません。本当は楽しい日々を送っているはずなのに自分の内的な葛藤に捉われそれを実感できないのです。今思い返しても、楽しいことは沢山ありました。でも、それは今だからそう思えるのです。当時の僕は、自分の不調のことで精一杯でした。さらには、自分のプライドゆえに誰にも不調を打ち明けられずにおりました。もちろんそのようなプライドを持っていても良いことなど一つもありません。それは、プライドなのではなく、単なる自分の弱さだと気づくまでには、ずいぶんと長い時間が掛かりました。
今でこそ思うのは、自分ごときがカッコつけても仕方がないということ。もっと、オープンに自分を開示していけば良かったのです。好きなことも、嫌いなことも、やりたくことも、やりたくないことも、もっと素直に表現する方が人生楽しいじゃないですか(笑)人生を楽しく生きる上で、最も大切なことは、自分に素直になる能力ではないかと思うのです。不調なら、不調でいいのです。それを隠そうとするからどんどん自分で自分を追い込むことになる。むしろ「不調だけど、ありもので頑張って生きてます!」でいいのではないでしょうか。僕は、自分の経験からそのように思います。
ちなみに、僕が最初に就職した会社は自動車の販売会社でした。結論から言うと、僕の社会人の第一歩目は、アッサリと終焉を迎えることになります。合計3回の事故を起こしてしまい、会社を首同然に去ることになりました。(名目は自主退職)原因は、頭痛があまりにひどすぎて気が付いたら気絶してしまい、あるときはガードレールに突っ込んで車を全損させてしまったこともありました。会社の指令で病院に行き脳波測定なども行いました。
しかし、結局はその時に不調の原因は分からず仕舞いでした。営業としての成績はまずまずで、車を10台売った月もありましたが、そういった理由での退職となりました。ナンバー1の営業になると散々豪語していた僕のディーラー人生は、ここであっけなく終了となったのです。
さて、このあたりで私はいい加減このままずっとこの頭痛を抱えたまま一生生きていくのか?と人生に絶望するようになっていました。まだ20代前半でしたが、出口のない真っ暗なトンネルの中に入ってしまったようでした。
本気で自身の精神状態がマズイと判断した当時の僕は、心療内科にかかったことがあります。
僕は、心身の状態を打ち明け、どうにか医師に解決策を提示して貰おうと必死でした。自分の現在の状況や心境をなるべく理解して貰えるように医師へ話をしました。問診中に医師から「死にたい思うことはありますか?」と聞かれ、僕は「別に死にたいとは思わないです」そう答えました。僕は、自分自身非常に危険なメンタルの状態だという自覚はあったものの、死のうという選択肢は持ち合わせていませんでした。ただ自分の状況を心の底から理解してくれる人が欲しかったのです。残念ながら、医師からの言葉は「なら大丈夫ですね」の一言でした。
正直、自分の心情的に「なんともないわけない(笑)」とは思いましたが、医療における診断基準は、国の規定で決まっております。ですからお医者さんのこの返答は仕方ないのかもしれません。そもそも日本における現代医学は、国の医療保険制度に沿って行われています。ですから、日本の病院では何かしらの診断名を付けないと薬が処方出来ません。そのため、病院としては診断名がつけられない人間をケアすることは出来ませんし、その必要性もありません。もう少し直接的に言えば、診断名がつけられない患者さんはお客さんではないのです。反対に、何かの処方箋を出そうと思ったら、うつや不安障害、パニック症候群や自律神経失調症など、ありあわせでなんらかの診断名をとりあえずつける場合もあるということです。
医療は確かに我々の身体を守ってくれる素晴らしいものです。しかしそれは決して万全ではありません。我々は、このことをしっかりと理解する必要があるんだと思います。病院で薬が処方できなければ、原因不明の不調ということになりますが、それは単に「国の医療保険制度にピックアップされていない部分にこそ、不調の原因がある」ということが判明したといことに他なりません。
ただこの当時の私は、その事実を認識出来ていなかった為に、何か原因不明の恐ろしい何かに憑りつかれていると思っていました。しかも、その解決方法は一向に見つからない。当時は千葉の幕張に住んでいてそれなりに人が多く住んでいる都会でしたが、心理的にはこの世の中に一人で生きているような気分でした。
その後も自分の健康面の状態に注意を払いながら仕事を続けながら、なんとかこの苦しみから逃れたいとの一心で可能性のあるものは何でも試しました。血糖値の推移を測る検査、5時間糖負荷検査を行いました。機能性低血糖症が判明しました。ここでは詳しい説明はしませんが、人は食事をしたときに血糖値が上昇します。それを一定に保つために膵臓のランゲルハンス島にあるβ細胞からインスリンが放出されます。
僕の場合は血糖値の異常、インスリンの最低血糖値が27まで下げる結果となり重度の反応性低血糖であることがわかりました。病院の医師にも、何万人もいる患者の中でトップ10に入るレベルで状態が悪いと言われました。「え?こんなに全国から重度の低血糖症の患者が集まってくる病院で、トップ10以内とかあるの?」まさかの診断結果に、自分の状態の悪さには驚きました(笑)
しかし、重度の低血糖症だとわかり、今までの不調の原因がわかった僕は、心底ほっとしました。ようやく原因がわかった、これなら治るはずだと思ったのです。
早速、サプリによる分子整合栄養医学における治療を行いました。しかしながら、僕の場合、分子整合栄養医学は多少の成果があったものの、大きな改善までには至りませんでした。もちろん、症状の2~3割ぐらいは改善したかな?と思いますので、お世話になった先生には感謝しております。しかし、まだまだ普通に生活していくには、程遠いレベルでした。
さらに、ほぼ時を同じくして某有名睡眠クリニックで脳波測定をした結果、ナルコレプシーとの診断がつきました。ナルコレプシーとは突然の睡眠発作や脱力発作などの症状が現れる病気です。しかし遺伝的な要素が強いナルコレプシーですが、私の家族にナルコレプシー患者はおりませんでしたし、脱力発作もありませんでした。薬もリタリンとモディオダールという脳を覚醒させる薬を処方されましたが副作用が強くてとても飲み続けることは出来ず、また頭痛も改善しませんでしたので服薬治療は辞めてしまいました。
またこれは後日談ですが、検査を受けた後から10年後に私は睡眠外来を再受診しております。当時はまだまだ不調の最中におりましたので、もしかして睡眠についてナルコレプシーではないにせよ何か問題を抱えているのではないか?と改めて気になってのことです。しかし再受診したときにお医者さんに聞いた話では10年前の睡眠検査における病名診断基準はかなり曖昧だったとのこと、現在の診断基準においては以前の測定データを以てしてもただちにナルコレプシーの診断にはならないとのことでした。そこでまずは、再検査をする場合は、規則正しい生活をするなどの生活指導から行うということでした。また、お医者さんから「もし何かしらの診断がついた場合は薬の処方箋が出るが、それは根本治療ではなく一生症状を抑えるために服薬を続けることになり副作用も発生しうる」との説明を受けました。
結局、再検査はしなかったので憶測でしかありませんが、おそらくナルコレプシーは誤診だったのでしょう。今では不調も大きく改善しましたし、車の事故は一社目以降、一度もありません。もちろん、誤診だったとしても、病院に対して不満があるわけではありません。ただ実際に、不調の根本原因見つけることは簡単ではなく、場合によっては全然関係のない診断をされることもあります。病院に行けばすぐに原因が見つかり、服薬すれば問題がが解決するというわけではないということです。これだけあらゆる病に対する対処が確立されてきた現代医療を以てしても、事実として人の不調を改善することは簡単ではないのです。不調を改善していくにあたってまずはそのことを理解する必要がありました。
しかし当時の私はそんなことは知る由もなく、人なぜこんな悪夢みたいな日々が続くのかと、薬を飲んでも一向に良くならない症状に「本当に呪われているのではないか?」とさえ考えました。全然そんなことはなかったわけですが(笑)
ちなみに、この重度の低血糖症の診断と、ナルコレプシーの診断を受けた当時、僕は消防士に合格したばかりでした。実は、二社目の会社で働きながら、一念発起して消防士になるべく猛勉強をしていたのでした。今にして思えば、そもそも不調がある中で、さらに勉強をして消防士を目指すこと自体、そもそもかなり無茶でしたが、ラグビー部の先輩の消防士から話を聞いて人を救うことに憧れを持った僕は、いても経ってもいられずに消防士を目指してしまったのです。仕事が終わってから勉強をして、その後午前2時頃にマラソンをしてから寝るという、頭のおかしい生活をしていました(笑)
ですから、東京消防庁に合格したタイミングでこれらの持病が発覚したときは、流石にショックでした。とはいえ、医者からもドクターストップが掛かりましたし、泣く泣く合格は辞退することにしました。もっとも周りには、持病の話をするのが億劫だったので、不合格だったことにしてましたが(笑)
ちなみに、消防士を目指している最中は、障碍者自立生活支援センターで職員として働かせてもらっていました。代表は、自身が20歳の時にバイクの事故で頸椎を損傷してしまい、頸椎損傷で、首から上しか動かない状態で会社を経営されておりました。
代表は事故後の10年間、うつ状態で苦しんだそうだそうです。自分に自信も持てなくなり、近所の人へ顔を見られるのも嫌になり、家に引きこもっていたそうですが、代表はそこでは終わりませんでした。自らを奮い立たせ、自分の人生を生きるべく一歩を踏み出しました。障がい者でも自立して生活が出来る為の自立生活支援センターを立ち上げ、今では多くの自立生活を行っている障碍者の方、職員が集まる大きな組織になっています。僕は、退職するときに代表と飲みに行かせて頂きましたが、その時に「こういう人生もアリだな、と思う」と笑顔で話していた代表に、なんだか救われた気がしました。
代表は、自身の絶望を乗り越え「自分の人生を受け止めている」からこそ、そういう言葉が出てきたのではないでしょうか。代表とは、今でも連絡を取らせて頂いていて、交流があります。私の人生に大きな影響を与えてくれた一人です。
このように人との出会いが、僕に物事の捉え方は一方通行ではないことを徐々に気づかせてくれました。僕の中で、少しづつ自分の不調に関する捉え方が変わっていきました。例え同じ状況であったとして、捉え方次第で天国にも地獄にもなる。ただし、「言うは易く行うは難し」で、実際には思考の転換がなんと難しいことか。僕が腹落ちするまでに、ここからさらに長い年月が掛かりました(笑)
その後、消防士になるという夢を断たれた僕は、とにかくビックになりたいと言った謎のモチベーションだけを頼りに、東京の人材派遣会社に就職しました。東京に出れば何とかなると思ったからです。とにかく、成功しないと自分は認められないと強く思い込んでましたから、そこで僕は、またまためちゃくちゃ頑張りました。入社して2か月後には、上長にお願いしてオフィスで徹夜したりしながら、仕事に励みました。元々、パソコンが全く出来なかったので、転職したての時は非常にマズイ状況でしたが、休日を利用して徹底的にExcelの使い方などを勉強し、ひたすら勉強しました。入社したその年には、年末のスタッフパーティーで司会、忘年会の司会も任せて貰えました。東京でのサラリーマン生活は、僕にとってはとても新鮮で楽しかったので、いまだに大都会東京に憧れがあります(笑)
そして、この時期に僕は、自分の人生に大きな影響を与えてくれる方に出会いました。当時、なでしこジャパンのメンタルコーチも務めた、金森さんとの出会いです。元々営業先で出会った方の名刺に、メンタルトレーナーなる資格が記載されていたので、気になって聞いたのがきっかけです。
その当時、僕はまだ転職したてで先輩について営業同行して頂いていた時ですから、如何に自分が気になったら突っ走ってしまう性格なのかがわかります(笑)
そこで、営業先の方に紹介を頂いて、金森さんに出会ったことで、心理カウンセラーという職業を知ることになります。最初に会った時に「我々は、宇宙にある小さな地球にいる豆粒のような存在にしか過ぎず、悩んでもしょうがない」といったような話をして頂き「おお、この人はなんか違うな」と驚嘆したことを覚えています。その後、人の影響を受けやすい僕は、猛烈に金森さんに惹かれてカウンセラーとしての勉強を始めることになります(笑)
金森さんには、2週間に1度、一回90分のカウンセラーになる為の指導を9か月して頂きました。
一番記憶に残っているのは「人に期待せず、人を信じぬく」という言葉です。
人に期待するのは、周囲に反応的になっている証拠。主体的に人を信じ抜くことが大切という意味だったと思います。しかし、これはとても難しいことだなぁと思うのです。僕はこの言葉を「如何に、確たる自分を持てるかが大事」ということだと解釈しています。人を信じ抜くという確たる自分さえ持てていれば、人が心理的に溺れている状況であったとして、「諦めることなく待てる」ということなのではないでしょうか。それが、人に期待をしてしまえば、どうしても他責になってしまう。それでは、どうしても限界が来る。そういった心境に至れるまで、僕は一体あとどれぐらいかかるのでしょう。
その後、僕は札幌に転勤になります。そして、ここでようやく僕は、自分の不調を乗り越えることになります。しかし、それは札幌に転勤になってからもう少し経ったあとの話です。
札幌に来てからも、仕事では毎日のようにトラブルはありましたが、僕なりに頑張りました。
その甲斐あってか札幌に来てからは、札幌支店としてMVPを2年連続で取ることが出来ました。
しかし、この頃になると、不調を隠しながら生きていくのはもはや肉体的にも心理的にも限界でした。
ちなみに、なんとか自分の不調を治したいと考えていた頃、僕はこのように行動していました。ネットや書籍で自分と同じような症状に苦しんでいる人のブログを読み漁り、少しでも症状が改善したとの内容を見つければ自分でも試してみる。そして一定期間で成果がでなければ試みを中断し、別の改善策を探す。を繰り返しました。もしかして、これなら自分の症状が緩和されるかもしれない!と思えば、心は天にも昇るように晴れやかになりましたし、試してみてダメだった時はとことん絶望に打ちひしがれるといった具合でした。
忙しいですよね(笑)
とはいえ、このあたりの行動は、不調がある方は、あるあるではないでしょうか(笑)
僕自身、その繰り返し終わらない負のループにどんどん心が壊れていくことが実感できました。友人にも相談できず、病院へ行っても原因がわからない。もう仕方ないから不調を受け入れよう、治そうとする努力は辞めよう、そのように決心したのみ束の間、その苦しさを受け止めることが出来ずに気づいたらネットで不調改善の記事を読み漁る日々(笑)
もはや自身の不調に人生の全てが振り回されておりましたが、その行動由来は「不調が治ってはじめて人生が始まる」といった強迫性から来るものでしたから、自分自身の行動のコントロールが効きませんでした。何度も何度も、この不毛な戦いは辞めようと思いましたが、不安から常にどうやったら治るかという事ばかりを考えてしまいます。当てもない毎日を過ごしながら、本当に頭がどうにかなりそうでした。
ちなみにある時期は、サプリで不調を改善しようとして1日10種類以上のサプリを飲んでいたこともあります。もはや、藁にも縋る思いで何でもやりました(笑)
言うまでもなく、、自分でわざわざ不調を創ってますね(笑)
どうか、皆さんには僕と同じ失敗はして欲しくないと思っています。確かに不調の真っただ中にいる中、落ち着いて前を向いて進んでいくのは簡単ではないです。しかし、そもそも不調はちょっとした不要な思い込みが重なった結果、交感神経が過剰に反応している状態ですから、治そうと躍起になればなるほど状態は悪化します。「不安になるって色々やってしまうけど、そのせいで自律神経は一向に整っていかない」まさに、痛し痒しといったところです。
さて、仕事ではなんとか不調を誤魔化しながら日々を耐え、休日はあまりのつらさに1日中寝込むような日々が続きました。もうこの頃になると、誰かに相談するというよりは、自分の弱みをみせてはいけない、自分の不調がバレてはいけない、そのように思うようになっていました。朝起きた瞬間から、心が折れるのが実感できましたので、そんな情けない自分を隠す必要があったのです。いつの間にか、人生に対して主体的ではなくなっている自分がいました。
ある日、いつものようにネットで不調を改善する為のヒントはないかと探していたところ、気になるサイトに行き着きました。そこには、自律神経が不調に影響することを詳しく書いてあり、院長も自身の不調を乗り越えてきたということが記事から読み取れました。
この頃には、僕は自分自身の不調の回復について、ほとんど希望を持てなくなっていましたが、どうしても気になったので行ってみることにしました。それが僕の整体の師匠との出会いでした。
施術は、ゆらゆらと心地よく身体を揺らす動きで「施術に痛みもないし、これなら続けられそうだ」と思い通ってみることにしました。そして、整体院に通いながら、のちに僕の師匠となって頂く荒井先生と話をしていくうちに、少しづつ自分の不調の原因に気づくようになり、そしてようやく「不調は自分で創っている」ことを実感するに至りました。
ちなみに、僕には以下の思い込みがありました。
自分はありのままの自分では愛されない。
世の中は、正義と悪に分かれている。正義でいなければならない。
人生は一度きりだから、何か生きた証明を残さなければならない
楽をしてはいけない。
人生は苦しいものだ。
自分は、何をやっても大成しない人間だ。
自分で書いていて、恐ろしいですね(笑)
ありのままの自分では愛されないという思い込みによって、いつも周囲の人が敵のように感じていましたし、世の中は正義と悪に分かれていると思い込んでいたので、何が正義かをいつも考えていましたし、人生で生きた証明を残さなければならないと思い込んでいたので、常に仕事で成果を上げようと必死でした。そのくせ、楽をしてはいけない、人生は苦しいもの、何をやっても大成しないという思い込みがあったものですから、めちゃめちゃ人生ハードモードになっていたというわけです。自律神経も大いに乱れていました。
本当は、もっと素直に好きなことをやって、嫌いなものは嫌いとはっきり言えば良かったんですけどね(笑)
僕の場合は、こういった不要な思い込みのせいで、僕は自分の人生を生きられなくなっていました。そして、その結果、憎しみや怒りを心の奥底に溜めてしまい、自らの心身を破壊していたのです。
ちなみに、不調からの回復はこのような経緯を辿りました。
ワクワクする方を生き方を選びことで、徐々に自然体で生きられるようになる。そこで、自分が捉われていた思い込みに気づく。その結果、僕の場合は、頭痛の程度や頻度が下がっていきました。あとは、その繰り返しでどんどん不調から回復していきました。
もちろん、全て右肩上がりで回復したわけではありません。回復したと思ったら、不調がぶり返したこともありますし、今も無理をすれば体調に出ます。ただし、以前のように慢性的な不調からは脱出することが出来ましたし、ゆっくり休めばきちんと回復します。
19年もずっとめげずに不調に向かい合ってきた答えが、そこにありました。
まさか思い込みで不調を創っていたなんて!
さて、僕が捉われてた思い込みは先に挙げた通りですが、それでは僕にとっての「ワクワクする方を選ぶ」とは何だったか、、
それは、師匠から整体を学び、治療家として生きていくと決めることでした。
僕の場合は、この選択が最終的なトリガーとなり、自分に合った生き方を選んだ結果、様々な思い込みから解放され、不調から運よく回復することが出来ました。文章にするとあっという間ですが、なんとここまで19年も不調と向き合ってきました。我ながら、よく頑張りました(笑)
もちろん、治療家になると決めてからはこれまでとは違った試練が待っていました。
日中は師匠の整体院にて付きっきりで学ばせて頂くことになりましたので、仕事は辞めることにしました。その代わりに、休日のコールセンターと夜間の食品工場でバイトを掛け持ちしながら生活を維持しました。また、それでも足りなかったので、北海道でブロッコリーを箱詰めするバイトや、ごみ収集のバイト、某○○パンの夜勤バイトなどやれることは何でもやりました。
うーん、札幌に転勤になったことでさえびっくりなのに、まさか北海道でブロッコリーを箱詰めするバイトをすることになるとは、流石に予想していなかったです。大変でしたが、全ては学びですね(笑)
そして、そのような素敵な体験を北海道でしつつ、ついには卒業となりました。
荒井先生からは、整体の技術だけではなく「人生とは何ぞや?という師匠なりの答え」を貰いました。その内容は、師匠から僕へのプレゼントなのでここでは秘密にしておきます(笑)
僕は、師匠の「人生についての解答」を血肉とし、大いに指標にしながらも、あくまで自分なりに「人生についての答え」を追い求めていきたいと思っています。
さて、その後本州に戻った僕は、無事に治療家として店舗を構えるに至りました。
オープン前には、自分で4000部のチラシを撒きました。この時の不安と希望が同居したような奇妙な感覚は、今でも忘れません。最初に来てくれたお客様は、首と肩の痛みで来院された学校の教師でした。3度来院されましたが、無事に首と肩の痛みを取り除くことが出来て、正直、本当にホッとしました(笑)
色々な方が来てくれましたが、中には79歳のおばあちゃんもいらっしゃしました。その方は、旦那様と関係で鬱になって来院されましたが、通って頂くうちにどんどん笑顔を取り戻されて、最終的には「今が人生で一番幸せ」と笑顔になってくれました。僕としては、やはりこの仕事を選んで良かったと思った瞬間でした。
しかし、僕の治療家としての人生は、順風満帆とは行きませんでした。オープンしてまだ半年が過ぎた頃、コロナが発生したのです。少しづつ来院されるお客様が増えてきた頃でしたが、お客様は一気に激減しました。
僕はなんとしても整体院を維持したかったので、まずは夜勤のバイトを週6ですることにしました。その後、まだ経費に足りなかったので、アパートを解約し、代わりに近所のジムを契約しました。夜のバイトが終わったら、そのままジムでシャワーを浴びて、日中は整体院で治療をするという生活が続きました。
しかし、一向にコロナは終わる気配がなく、だんだんと追い詰められていったのです。流石にこの生活では、僕自身も壊れると思ったので、店は閉店することに決めました。
そして、もうあと数日で閉店するといった時でした。オープンして最初に来てくれた教師の方が来られました。期間は大分空きましたが、前回良くなったことで、再来院してくれました。治療をしながら、実は閉店することをお伝えすると、非常に残念がってくれました。こうして、最初に来てくれたお客様と最後に来てくれたお客様が同じという、なんとも不思議な形で僕は治療家としての活動の第一幕は終わりを迎えることになりました。
店を撤去するときは、なんとも言えない虚しい気持ちになりましたが、オープンしたときと同様、ラグビー部の同期が撤去を手伝ってくれたので、淡々と作業を進めることが出来ました。
その後は、生活の為に工場で仕事を始めましたが、この時は、かなり心身を疲弊してしまっており、最初は誰とも話す気になれませんでした。ただし、働いていく中で、次第に同僚と仲良くなり、なんやかんや楽しくやっていたと思います(笑)
その間も治療家としての勉強や、技術練習は継続していました。別に、今後復活の目途があったわけではありません。ただ、そういった習慣が身についていたからです。
そんな、ある時、ふと思いつきました。そうだ、車中泊しながら休みの日に遠出しよう!
それは、自分の不調から脱出したときの「ワクワクを選択する」という決断でした。今までの経験から、状況を打開するには、ワクワクに従った方がいいとわかっていたからです。
僕は、早速激安の軽ワゴンを購入し、車内を車中泊が出来るように改造しました。この1年8ヵ月ほどは、ほとんど身動きが取れなかったので、久しぶりの胸の高鳴りを感じながら、意気揚々と家を出発したことを覚えています。しかし、家から5キロほどの峠に差し掛かったあたりで、急に車が坂を登らなくなったのです。「あれ?おかしいな。いくら踏んでも車が動かない」何をしても、車が進んでいかないので、仕方なくサイドブレーキを引き、JAFに連絡を入れました。クラッチが擦り切れていました。
僕の久しぶりのワクワクは、家から5キロの地点で収まりました。
しかし、そんなトラブルに僕はめげません(笑)車を修理した後は、全国を車中泊しながら旅をしました。一番遠いところでは、四国まで行きましたし、仙台や山形、新潟にも何度も足を運びました。元々旅とドライブが好きな僕には、それが上手くハマり、再び気力を充電していったのです。
全国を旅しながら、色々と考えました。
どんな人生にしたいのか、自分にはどんな生き方が合っているのか。
ですが、もう一度治療家として再スタートすることを決心するまでに、時間はかかりませんでした。
そして、諸々の準備を整え今に至ります。
これら、僕が自分の不調と向かい合った19年です。
母にから聞いた、自分を励まし続けてくれた言葉があります。
「人間は、必ず楽しいことが6割以上、つらいは4割以下のバランスになる。4割以上つらいことがあったら、人は生きていけない。だから、つらいときでも、6割の楽しいことに目を向けて」
それでは、長文ではありましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
皆さんの人生に幸があることを心よりお祈り申し上げます。